2011年10月12日

基準値が異なれば、見える世界が変わってくる

原発災害の後、当然のように、全国の農地は汚染されました。汚染の程度はさまざまです。汚染地図も発表されました。作付制限も行われました。
その上で、秋になり、新米がとれるようになり、新米の放射線検査が行われました。そして、福島県の知事が「安全宣言」を出しました。こちらの記事ですね。

福島のコメ、全域で出荷へ 知事が安全宣言 

重要なのは、これが国際的にみても非常識な500Bq/kgという数値を超えるかどうかで判断されたということです。基準値を上げれば、そりゃ、全部合格しますよね。

それでは、この基準値を下げればどういう世界が見えてくるでしょう。たとえば、ウクライナではパンについて20Bq/kgの基準値を採用しているようです。この基準値を日本のコメに当てはめたとしたら、福島のコメに「安全宣言」は出せるでしょうか。

これまでの福島県の農産物の放射線検査の結果は、こちらのページにまとめられていて、タブとチェックボックスによって該当する農産物を絞り込めるようになっています。

ふくしま新発売 農林水産物モニタリング情報

このページで、コメにチェックを入れてデータを出すと、50件ずつの表で34枚、合計1689件の調査結果が出ます。ほとんどがNDですね。特に、放射性ヨウ素は、さすがにこの時期まで残っていないのか、全てNDです。

このNDを、仮に0として、セシウム134 とセシウム137の数値を足し合わせます。本当はゼロにすべきではないんですよ。7Bq/kg以下の数値は表に出てきませんから、おそらくその辺りが検出限界なのでしょう。だとしたら、たとえばセシウム134が6ベクレルで137が5ベクレルの合計11ベクレルのコメがNDと表現されていたりする可能性もあるわけです。ですから、慎重側をとるならNDを5とか6とかに置き換えるほうがいいのですが、そうするとそれはそれで過大評価みたいに言われますから、とりあえずはゼロとします。そして、セシウム134とセシウム137の数値を足しあわせて、ウクライナのパンに相当する20Bq/kgを超えるものが何件あるか調べます。

簡単なエクセルの操作で、すぐにソートアウトできます。答えは172件です。

1689件中、172件はアウトなんですよね。つまり、1割のコメは、基準を変えるだけで汚染米になってしまうわけです。そして、1割が汚染されているような地域で「安全宣言」なんて出せるわけはありませんよね。

国が500Bq/kgの基準を変えたがらない理由が、このようにして浮かび上がります。けれど、そうすることで、国は危険なものを安全と呼び、不必要に「風評被害」を拡大させています。誰がこんな「安全宣言」を信用するでしょう。そして、福島のコメの値段は暴落します。NDで、国際的にみても「安全」と呼べるコメまで巻き添えを食うわけです。これは、国家が仕掛けた意図的な被害です。

こういういい加減なことをいつまでもしていてはいけないでしょう。正しい基準値を採用し、安全なものを安全、危険なものを危険と正しく呼ぶことでのみ、「風評被害」は防げるのです。危険なものを安全と呼んで売ろうとするから、だれも買わなくなるのです。商売の基本じゃないでしょうか。

もちろん、20Bq/kgが安全というのには、何の根拠もありません。過去のコメの含有量の履歴から考えたら、おそらく5Bq/kgあたりが正しい基準値ではないかとも思います。けれど、そうなると、上記の検出限界の問題から、「安全」と呼べるコメはこの世に存在しなくなります。そういうものかもしれないのですが、それはそれでやっぱり日常生活には差し支えてしまいます。

どこかで妥協しなければならない以上、五十歩百歩なのかもしれません。それでも五十歩には五十歩なりの合理性はあると、そんなふうに思います。
スクリーンショット - 2011年10月12日 - 21時56分39秒.png
posted by 松本淳 at 21:57| Comment(4) | 自由研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月22日

「署名は倉庫に積まれる、デモは無視される、政治家の事務所に行け」は、政治家の保身

先日、東京で大規模な脱原発集会&デモがありました。私はネット中継で見ていたんですが、盛り上がりましたねえ。いろんな人がスピーチをして、それぞれに心に残るものでした。俳優の山本太郎氏は、さすが人前で話すのが仕事ですね、非常に説得力のある「命がけ」の話をしていました。ただ、ちょっと気になることがあったので、そのあたりを。

彼は、自民党の代議士である河野太郎から聞いた話と前置いて、「署名もデモも政治家にはうるさいだけ。本当に影響力を与えるには、皆さんの地域の政治家に働きかけてください!」と話していました。たとえばこの辺りにそういう記載があります。YouTube動画でも確認できるでしょう。

東京・明治公園での反原発集会に6万人〜福島デモ隊、都民の拍手で迎えられる

さよなら原発5万人集会/山本太郎さん 2011.9.19

これって、ちょっとちがうんじゃないでしょうかね。

この「政治を変えたいと思ったら代議士の事務所に行って政治家に働きかけろ」というのは、河野太郎の持論なんですね。私自身、彼がそう話すのを、数メートルの至近距離から聞いたこともあります。雄弁な人ですから、なるほどと思わせる力があります。特に、反原発に関しては実績もありますから、そういう意味でも説得力があるのでしょう。そして、これは彼自身の政治家としてのリアリティなんだと思います。彼にとっては決してウソではないし、それが自分の利益のためだなどとは思っていないはずです。けれど、本人の思いがどうであれ、その勧めに従うことは単に既存の政治家の利益を守ることにしかなりません。そして、それが正しい行動だと主張する河野太郎の思想は、自由民権という100年前の思想からしても甚だしく時代遅れだと指摘せざるを得ないわけです。

ちょっとでも政治家と接触したことがある人ならわかることです。彼らは決して陳情者、請願者、相談者を門前払いしたりしません。政治家にとってそういった人々は貴重な一票なのです。自分を当選させてくれる支持者として期待できる有権者です。ですから、親身になって話を聞いてくれますし、アドバイスもすれば、「じゃあ調べておきましょう」と期待を持たせるようなこともいいます。ただ、それが実際の行動に結びつくかどうかは別ですよ。親切に応対して「頑張ります」というのはタダですから、いくらでもやってくれます。実際にそれを政治の場で実現するのはものすごくエネルギーが要りますし、他の支持者の利害も絡みます。だからおいそれとはやってくれません。「先生、あれはどうなりましたか」と聞けば、「調査中です」とか「頑張っています」とか、「ちょっと難しくて」とか、実は何も進展していないことが明らかになったりもします。それでも、たいていのことには「否」と言わないのが議員のセンセイたちですよ。

こういう現状があるときに、「議員の事務所に行く」というのはどういうことを意味するのか、ということです。議員に頼み込む、議員はそれを受け取って引き伸ばす、選挙になる、議員に頼んだ方としては、せっかく自分の意見を聞いて動いてくれようという議員に落選されるのは残念です。新しい議員が選出されたら、改めてそっちに話にいかなければいけません。それはたいへんです。ということで、議員にとって都合のいいことに、ここに「支援者」が一人増えるわけですよ。

「議員の事務所に行く」のは、「現職有利」の状況をつくり出すことです。たとえその気がなくても、議員にものを頼むことは一票の取り引きだということを有権者は忘れてはなりません。

なぜ議員は、署名やデモを「うるさいだけ」と感じるのでしょう。それは、いくら署名が集まろうがデモが動こうが、自分の地位には全く関係がないことを知っているからです。それが自分の地位を脅かすのなら、つまり、次の選挙での落選につながるのなら、議員は「うるさい」なんて思わず、自分から署名集めやデモ動員に動くでしょう。日本では、署名活動やデモ活動は、選挙とはほぼ無関係に行われます。だから、その必要を議員は感じないし、「あんなものはうるさいだけ」と切って捨てることができるわけです。

そして、「議員の事務所に行く」のは、有権者にとって、自分が参政権を持っていることを忘れた行動であるということもできます。それは、お代官様にお願いをしに行く平民たちと同じです。議員が政治上の実権を握っていることを前提に、そこに解決の下駄を預けることだからです。けれど、民主主義とはそういうものではありません。参政権をもった有権者は、自分の代弁者を自分の一票で選ぶのです。自分が選んだ、自分の代弁者にふさわしい議員に自分の願いを伝えるのは構わないでしょう。けれど、自分が投票したわけでもない議員に、その人が議員だからというだけで解決を依頼するのはデモクラシー(投票主義)ではありません。そうではなく、自分の意志はあくまで投票で示すのがデモクラシーです。

だから、本当の意味での有権者の政治行動は、議員事務所を訪れることではありません。そうではなく、自分の意見を代弁している候補者を立てて選挙に勝つことです。そして、署名活動やデモ活動は、そこにつながることではじめて意味をもちます。デモ行進を見て次の選挙に恐怖を覚えるようになってはじめて、現職議員は「デモなんてうるさいだけ」と思わなくなるでしょう。そうなってはじめて、署名の束やデモの声が政治に反映されるようになるのです。たとえ選挙で勝てなくても、現職の当選を脅かすことができるだけで効果が生まれるのです。

「政治に意見を反映させたければ、デモや署名活動ではなく、議員事務所に行け」。これは議員から見たリアリティです。それを否定するつもりはありません。けれど、このリアリティを有権者が共有してしまったとき、政治は閉塞し、民主主義は死ぬのだと思います。

山本太郎氏は、情熱があります。その情熱が、ときに正しい現実を見失わせることもあるでしょう。けれど、彼の情熱は本物です。だとしたら、彼の言葉に誤った認識があっても、彼を批判すべきではありません。ただ、誤った認識は訂正しなければいけないと思います。それが、年長者の役割ではないでしょうか。
posted by 松本淳 at 20:05| Comment(0) | 論説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月17日

「情報の質」を語る人の情報の質の低さ

Twitterで流れてきた記事なんですが、こんなのがありました。
情報リテラシーについて
最初は、「まあそうだよね」と思って読んでいたんですが、だんだん違和感が大きくなってきました。そして、途中で読むのが辛くなってしまいました。なんなんだろうと思ったら、これって、いわゆる「上から目線」なんですね。そのあたりをネタに。

具体的にいきましょう。著者は「情報平等社会」が崩れた現在、
「クオリティの高い情報の発信者」や「情報価値を適切に判定できる人」のところに良質な情報が排他的に集積する傾向があるということである。そのようなユーザーは情報の「ハブ」になる。そこに良質の情報を求める人々がリンクを張る。逆に、情報の良否を判断できないユーザーのところには、ジャンク情報が排他的に蓄積される傾向がある。
と分析します。この分析そのものは、大きく間違っていないと思います。だいたいにおいて、情報は似たような情報のあるところに集まるものです。

ただ、ここで違和感がはじまるのです。というのは、「情報の良否」とか「ジャンク情報」とか、うっかり見過ごしてしまいがちになるのですが、相当に価値観をもった言葉が埋めこまれているのですね。

もちろんこれは、著者自身が気がついているところです。ここを正当に説明しなければ、「それは結局あんたの好みだろう」といわれておしまいですから。
「主観的な情報操作や歪曲はそのつど間主観的に構造化されている」がゆえに、それらもまた「きわめて重要な情報」であることに変わりはない。
そして、私自身による情報の選好や操作もまたまたそのつど間主観的に構造化されているがゆえに、その検討を通じて、私たちは「私自身の知がどのように構造化されているか」を知ることができるのである。
情報リテラシーとはそのことである。
と、「情報リテラシー」を規定し、それがあるかどうかで情報の良否を判定できるとしているようなんですね。
これってでも、かなり疑わしい話です。「自分の知がどのように構造化されているか」という知もまた、その構造化の部分であることを避けられないわけです。平たくいえば「疑いだしたらきりがない」ということですね。そして、「そもそも人間なんてそんなもんだ」と切ってしまえば、論理は崩壊します。「やっぱりあんたの好みじゃないの」と断じられてしまうわけですね。客観的な「情報リテラシー」という基準を打ちたてようとしたけれど、それが循環論法に過ぎないことが明らかになってしまうからです。

だから著者は、議論を先に進めます。
情報リテラシーとは個人の知的能力のことではない。「公共的な言論の場」を立ち上げ、そこに理非の判定能力を託すことである。
情報の階層化とは、そのことである。
平たくいったら、「自分一人で疑いだしたらきりがないよね。でも、みんなで『そうだ』といったら、それは大丈夫なんじゃない」ということでしょう。そしてこの「みんな」の良否によって、情報の質が変わってくる。だから「階層化」だというわけですね。

吐き気がしてくるのはこの辺りです。結局のところ著者が言いたいのは、「自分は正しい。だってまわりに正しい人がいて、それが公共的な言論の場を形成しているじゃない。この公共の場に入ってこれない人は、情報リテラシーが低いんだから、その人たちの話の通じる世界に切り離されてしまう。わかってる人々が知識階級を形成し、わかってない連中はその下の階級に属するんだよね」ってことじゃないでしょうか。

そしていみじくも、これは著者自身がいうように「政治的な問題」なんですよね。知性とか学問とかいわれているものの政治問題です。そういう「知の支配層」が、現実に、確かに存在します。そして、この元ネタの著者はその支配層にどっぷり漬かっているわけですよ。そして、その支配の正当性を、こんなもっともらしい文章で主張しているんですね。気分がわるくなります。

そりゃあ、著者があげているような「陰謀論」は、確かに「情報リテラシー」が低いのかもしれません。けれど、その陰謀論からも学ぶことができてこその知性じゃないでしょうか。ちなみに、陰謀論を「世の中のすべての不幸はそれによって受益している悪の張本人(マニピュレイター)」のしわざである」とするものだと決めつけるのは、非常に知性の低い分析だと思います。確かにそういう主張で金儲けをしている人が多数いて、そしてそれが不愉快なほどに現実離れしているのはそのとおりだと思います。けれど、現実の陰謀は決してマニュピュレイターを必要としないし、シナリオもフィクサーも不要で、それでも確実に進行するわけです。それは「空気」であったりそれぞれの個人の正義であったりします。そういった分析もせずにバッサリと低次元の論議を「陰謀論」としてひとくくりにし、それと対置させる形で自分の正当性を主張するのは実にご都合主義ですよ。世の中には、知の支配層の議論でも陰謀論でもないさまざまな「情報のハブ」が無数に存在するのです。それを、見せしめ的なひとつの思想を持ち出して十把一絡げに貶めるのは、本当に「情報リテラシー」のあることなんでしょうか。

結局、支配層には、支配を正当化するための言説しか吐けないのです。それがいけないと責めるつもりはありません。言葉とはそういうものです。客観性なんて、世の中に存在しない幻想です。誰もが自分の立場からしかものが言えません。

著者はこう書いています。
私たちは一般的傾向として、自分が知っている情報の価値を過大評価し、自分が知らない情報の価値を過小評価する。
「私が知っていること」は「誰でもが当然知らなければならないこと」であり、「私が知らないこと」は「知るに値しないこと」である。
ここでやめておけばよかったんですよね。人間とはそういうものだという分析は、全くそのとおりだと思います。けれど、著者は、それを客観性によって、メタな思考によって克服できると考えています。大甘です。

だって、この記事そのものがその典型的な実例なんですから。

私たちにできることは、言葉が通じない現実をそのままに見つめ、その上で、言葉の向こうにある人間の意志や社会の構造に立ち向かっていくことではないのかと思います。そこまでの覚悟は、階層化された社会の頂点にいる人たちには無理なんでしょうねえ。
posted by 松本淳 at 12:01| Comment(0) | 論説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月15日

大マスコミのローカルメディア叩きがはじまった - 「フリーペーパーに犯罪助長広告」と

こんなニュースが出ていたんですよ。でも、これってそもそもニュースにすべきことなんでしょうか、というお話です。

犯罪助長広告:外国人向け無料紙58紙に736件−−警察庁調査

もちろん大マスコミは昔っから官僚や警察の垂れ流す情報を何も考えずに伝えるだけ、というのを繰り返してきました。だから、これだって警察の発表を得意気に記事にしただけ、ととれなくもありません。けれど、どうもちがうような臭いがします。

まず、「犯罪助長」です。電力会社の偽りの広告を大々的に掲載してきた大新聞が、いまさらいうことじゃありませんよ。犯罪的な企業でも、広告費を払えばどこの新聞にでも広告を出稿できます。もちろん、あからさまに犯罪行為は広告できないので、慎重な偽装が必要です。全国紙に広告が出せるぐらいの大きな企業なら、そういう細工をするぐらいの経費は難なく出せるでしょう。

一方、それができないほどの小さな企業は、広告掲載料の安いフリーペーパーに流れることになります。だから、フリーペーパーに特異的に犯罪企業が巣食うのではなく、大規模で偽装された犯罪は大新聞へ、小規模であからさまな犯罪がローカルメディアに流れるだけなんですよね。本質に何のちがいもありません。いえ、偽装された大規模な犯罪のほうが、よっぽどタチがわるいんじゃないですか。

そして、広告の奪い合いです。大新聞は全国に広く広告するのに有利ですが、ローカルに限られたターゲットに向けての広告効果は低いものです。たとえば外国人向けには外国語で書かれたフリーペーパーの方が広告効果が高いんですね。けれど、大新聞にはこれは面白くありません。ローカルのフリーペーパーに流れる広告を、自社のメディア、たとえば外国人向けなら自社の英語新聞に引っ張ってきたいわけです。

かつては、大新聞と地方のローカルメディアは棲み分け、共存していました。けれど、ネットが普及して全国ニュースが容易に得られるようになってくると、ローカルメディアが大新聞の存在を脅かすようになってきます。読者にとって新聞は、ネットに出てこないローカルなニュースを仕入れたり、ローカルな広告を見るための存在に変化してきています。それは大新聞でなくても可能なのです。だから、大新聞はローカルメディアと共存できなくなってきているんだと思うんですね。

だからまるで他人事のように、「警察庁は犯罪を助長するサービスや通信手段を「犯罪インフラ」と規定している」なんて報道するわけです。小さな法律違反よりも国家的な大犯罪を助長するほうがよっぽど「犯罪インフラ」の名にふさわしいと思うんですけど、そんなことは一言もありません。ローカルメディアに悪名を押し付けて、知らんふりです。はっきりいって、「フリーペーパーなんて潰れろ」と思ってるんじゃないでしょうか。

そして悪質なのは、そのために、近年世界的に増加している外国人排斥の風潮を利用することです。ヨーロッパで悲劇的な大量虐殺があり、日本でもあからさまな排外主義が世論を分断しています。そういう状況を巧みに利用しようとしているように見えます。

こういう報道を見ると、マスコミというのはとことん救いようがないなあと思います。さて、そうなると未来の「知る権利」をどうやって確保していくのがいいのかと…
posted by 松本淳 at 09:23| Comment(0) | 論説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月05日

政府なんてのはひょっとしたら要らない?

日本の首相がコロコロ変わるというので国際的な恥辱のように言われていますが、なんだったらもう、首相なんて選ぶのをやめてしまったらどうかと思うんですよね。といって、「無政府主義」みたいな懐かしいことを言おうっていうんじゃありませんよ。もっと実務的に、現実問題として、首相とか大臣なんて、いてもいなくても実は同じことじゃないかって、そんなふうに思うんですよ。

実例があります。ベルギーは、現在、首相不在のまま15ヶ月を経過して、順調に日々を過ごしています。首相不在で治安が特に悪化したわけでもなく、経済が失速したわけでもなく、全ては坦々と日常を過ごしています。なにも特筆すべきことが起こらないから、めったにニュースにもなりません。けれど、これって毎日がニュースだと思うんですよ。首相選びが難航して大ニュースになるようなとき、実はそれが全くの茶番だということが明らかになるんですから。ごくわずかの報道を拾い上げると、この辺りでしょうか。

ベルギーの無政府の件(英文 2011年9月4日)
ベルギー経済が順調なのは政府がないから?

ベルギー、国庫は空っぽ(日本語 2011年8月24日)
来年度予算は誰がドラフト作成するのか、これも無政府状態が続くベルギーでは頭を抱える問題となっている。

ベルギーの無政府状態で1年(英文 2011年6月13日)
レテルメ首相は昨年4月に辞任したが、いまも勤務を続けている。

ベルギー - 政治空白 Wikipedia(日本語)


温度差はありますが、いずれも正式な首相なんてなくてもどうにかなっている状態を報道しています。実務的にはこのレテルメ前首相が仮に職務を務めているようで、その他のニュースではそのまんま、ベルギー首相として扱われています。だから不在というわけでもないのかもしれませんが、やっぱり不在なんですよね、正式には。内閣も組閣できていませんから、大臣もいないわけです。

それでもOKなんですよね。日本も見習ってみたら、と思うのは私だけでしょうか。

ただ、じゃあ誰が政治を動かしているのかといえば、それはたぶん、官僚組織なんでしょうね。ということは、これは完全な官僚主義なんでしょうか。政治的無関心の果てにある官僚主義が、実はうまくいくということなんでしょうか。

この例とは逆に、政府があっても予算が可決されずに政府機関が止まるとどうなるか、というのが、アメリカのミネソタ州の例ですね。

ミネソタ州 予算合意できず州政府閉鎖(日本語 2011年7月4日)

予算が決まらず、図書館はじめ、各種公的サービスが止まりました。これは7月末には決着したらしいのでストップは1ヶ月程度だったようですが、実はこれは毎年恒例のようになっている騒ぎのようです。政治が止まるよりも官僚が止まることのほうが市民生活に大きな影響があるという実例ですね。

官僚主義バンザイと言うつもりはないのです。けれど、これが実態だということはしっかり意識したほうがよさそうですね。こういう社会が現実として世界中に存在するときに、政治の果たす役割はなんなのかとか、民主主義とは何なのかとか。

なんとも不透明な世の中です。
posted by 松本淳 at 16:30| Comment(0) | 論説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月18日

全国農業者に2年間の奨学金を

田畑のことを考えると、あの原発事故以後、もうおろおろするばかりで、なにひとつアイデアらしいものが浮かんでこないんですよね。だってそうじゃないですか。食べ物は、人間の生存の基本です。食うものがなければ生きていけないし、その食うものをつくる農業は、ベランダのプランタレベルから北海道の広大な農地のレベルに至るまで、すべて人間が生きることの基礎をつくっているもののはずですよ。
ところが、放射性物質が降ってくるようになって、そりゃ「直ちに健康に影響はない」のかもしれませんけれど、確実に農作物は汚染されます。自分がこだわりと誇りをもってつくっている作物が「汚染されてる」なんて、まともな神経の持ち主は絶対に言われたくはないですよね。言われたくないし、私だって言いたくないし、けれど、どんな言い方をしようが、今年をピークにして、作物に原発由来の放射性物質が含まれてしまうのは避けられないんですよね。

もう気の遠くなるような対策が必要になるんでしょう。被害の多い地域は土壌の入れ替えや除染でしょうし、セシウムを吸収する作物をつくってそれを耕地の外に出すとか、そんな気の長い作業も必要になってくるかもしれません。被害の小さい地域では、収穫物の線量をモニタしながら、それでもやっぱり人が生きるのに必要な分は出していかなきゃならないんでしょう。生産者、農民、百姓のことを思うと、ほんと、こんなことはあってはならない、夢であってほしいと思ってしまいます。けれど、これが現実です。

この先に長く辛い日々が待っているというのに、どんなアイデアを思いつけるというのでしょうか。けれど、本質的な部分ではないけれど、ようやく今日、小さなアイデアを思いつきました。単なる思いつきで、それが現実になる可能性はほとんどないし、仮に可能性があったとしてもそれが本当にいいことなのかどうかよく考えてもいないのだけれど、自分自身の回復の記録として、メモしておきたいと思います。

本当なら、汚染されていると罵られるのがわかっているとき、誰だって作付はしたくはないですよね。けれど、季節になれば、その季節の農作業は待っているものです。おそらく今年、多くの生産者が捨て作りと思いながら作付をしているでしょう。売れないことがわかっているけれど、農地の維持管理のために行う作付が捨て作りです。そういうことも、農作業のひとつなのです。

もしも耕作を完全に放棄したら、このモンスーン地帯の日本では、来年以後の作付が悪夢になるでしょう。雑草の種を含んでしまった田畑は、そう簡単に復活してくれません。場所によっては数年でジャングルのようになってしまうでしょうし、そうなったらすべていちからやりなおしです。

けれど、その労苦を前提にしてでも、こういう辛い時期には作付を休んだほうがいい農家もあるかもしれません。いえ、あると思うんです。しんどいときだからこそがんばるというのもひとつのあり方ですが、しんどいときには無理をせず休むという選択肢もあっていいと思います。ただ、休んだらどうなるんだという恐怖は常につきまといますよね。農地の管理もそうですけど、何よりも生活です。無収入でぶらぶら遊んでどうなるという恐怖は、放射能の恐怖以上のものでしょう。

ここで、アイデアです。政府は、そういった農業者を対象に、奨学金を支給しましょうよ。社会人が1年とか2年、現場を休んで、改めて何かを勉強しなおすというのは、世界的にはそう珍しいことではありません。たぶん、そういった成人教育は、よりよい人生をつくっていく上で大きな意味があると思います。それを、こういう機会に取り入れてはどうかと思うのです。

幸か不幸か、日本の農民人口は激減しています。汚染のひどい地域の農業者の全員を収容できるだけの高等教育機関の空席は国内だけでも十分にまかなえると思います。もちろん、海外への研修もいいでしょう。この禍をポジティブに変えるために、海外の状況を学び、海外の農民たちと交流を持つことも非常に大きな意味があるはずです。

下手な補助金を打つよりは、社会教育的な観点から、「今年は休んで勉強してください。その費用は国が持ちますから」という奨学金を支給するほうが、長期的には日本の農業にとってずっとプラスになるのではないでしょうか。

あ、もちろん、この奨学金は、被害の補償とは全く別立てですよ。そうでなければ安心して勉強なんてできませんからね。
posted by 松本淳 at 18:45| Comment(0) | 論説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月27日

医学はリスクとベネフィットを天秤にかける? 本当か?

世の中に放射線は閾値なしに絶対危険だとする意見とある程度までは容認できるという意見と両方あって素人は混乱するわけですが、このあたりの事情を教えてくれるTogetterまとめがあるというので読んでみました。こちらです。
低線量放射線被曝をめぐる混乱=医療と保健物理

決してわかりやすくはないけれど、言われてみれば「なるほど、そういうもんかなあ」とも思います。医療ではリスクとベネフィットをを天秤にかけ、患者の健康にとってベストな解を導きます。そう、相手にするのは「患者」、つまり既に健康に問題を抱えた人なんですね。一方保健物理学が相手にするのは労働者で、リスクだけが対象になります。だから、リスクに許容範囲はなくなる(あるいは非常に小さくなる)というんです。なるほど。

と、納得しかけたのですが、よく考えたらこれって二枚舌じゃないかって思い始めたんですよ。

どういうことかっていうのを、こういう抽象論、原則論で考えてもわかりにくいんですね。具体的にそういう「医学」がどういう言動を取るかってことを考えてみましょう。

まず、被災地で、「医学」が主張しているのは、「保健物理学」の「危険」とは全くちがうんですね。「放射線の影響をくよくよ考えるよりは、少々の放射線の影響は自己修復機能を信じて無視しましょう」ってことです。これは、一定の科学的根拠に基づいているわけです。つまり、「くよくよ悩む」ことによる健康リスクと、放射線の影響による健康リスクを天秤にかけるわけですね。その上で、前者のほうがより危険だから、ここは悩むのややめましょうと。

無責任に聞こえますけれど、ある部分、これは正しいと思います。私自身、怯えていたってしんどいだけなので楽天的にいこうと早くに決心しています。「自分は大丈夫」という根拠のない自身が、かえって好結果を生むという事例だって少なくないのです。たぶん、精神医学、心理医学の方では、そういう研究もあるのでしょう。そのベネフィットと放射線のリスクを天秤にかけているのだという説明は、これだけのことなら「そうなのかなあ」と納得できそうな気がします。

けれど、医者って、普段からそんなふうに言うでしょうか。とんでもないですよ。ウチの近所の医者ですが、カゼを引いて受診したら、なぜか尿検査をされますよ。そして、「数値がちょっと高い目ですね、ちょっと通ってもらったほうがいいかもしれません」と、こちらが頼みもしないのにメタボリックシンドローム予備軍の診断をくれるわけです。この飽食の時代、日本人成人の3分の1は、メタボリックシンドロームのポテンシャルを持っていますよ。そんなとき、わざわざ数値をあげつらって「メタボの治療をしましょう」と言って人をくよくよさせることの健康リスクと、放置することの健康リスクと、どっちが高いんでしょう。放射線をくよくよすることがそんなに危険なら、メタボをくよくよ悩ませることだって十分危険じゃないんですか。

だから、「医学」が二枚舌じゃないかと、そんなふうに思うわけです。常日頃から「病は気から」という主義主張を実践しているんなら、こんな時でも「ああ、医学的な立場からはそういう考え方になるんだなあ」と納得できるんですよ。ところが、医者ときたら、常日頃は患者を脅すことに躍起になっています。ちょっとしたことで、「診察を受けなさい」「薬を飲みなさい」「手術をしましょう」と、一般人を「患者」に仕立て上げるのに躍起です。単純に、それを自分の業務と心得ているんですね。だって、そうやってお金を稼ぐ以外、医者の生きる道はないんですから。

そんなふうに普段はふるまっておいて、こんなときに「病は気からです。放射能なんてくよくよ悩まない!」と言ったって、だれも信用しませんよ。そうなんですよ。もしもこの期に及んでそういうのなら、普段からもっと金儲け以外の視点で患者に接して欲しいもんですよ。
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posted by 松本淳 at 09:59| Comment(0) | 論説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月26日

班目委員長さま、あなたは単なる障害物だったのですよ

このニュースのタイトルのつけ方は絶妙です。笑い出してしまいました。

班目氏「私は何だったのか」 海水注入の継続発表で

福島第1原発1号機への海水注入をめぐる問題で、東京電力が実際は注入を続けていたと一転して発表したことを受け、原子力安全委員会の班目春樹委員長は26日、「中断がなかったのなら、私はいったい何だったのか」などと不信感をあらわにした。

原子力安全委員会そのものが機能を喪失していることは、今回の事故のはるか以前から指摘されていたことです。本来は安全のためになくてはならないものであるはずなのに、あってもなくても同じ存在、どっちかといえばないほうがマシな存在になっていたのですね。だから、いまさら、「私は何だったのか?」と言われても、もう吹き出してしまうしかないわけですよ。はい、あなたは名前だけの存在です。いないほうがマシな存在ですと、もうこれは世間のだれもが知ってしまっていることなんですよね。

緊急事態の対処は、現場の人間がいちばん適切にできます。指揮系統の判断を仰いでいてはたいていは手遅れになるものです。喩えがわるいかもしれませんが、旧帝国陸海軍ではこれは徹底していました。「独断専行」は、平常時には厳に戒められていましたが、非常時にはそれを行う必要性が常日頃から説かれていたわけです。

現場判断で事態が深刻化するのは、だいたいにおいて広範に状況を判断しなければならないような微妙なバランスが存在する場合です。たとえば、現場の判断で事態が手がつけられなくなった歴史上の出来事といえば、盧溝橋事件があるでしょう。日中間の小部隊で始まった小競り合いが、大規模な日中戦争に発展しました。しかし、多くの戦争の現場には、そんな微妙な外交的バランスは存在しません。目の前の敵にどう対処するか、どう闘うか、どう攻めるか、どう逃げるかといった勝負に関する判断だけです。そういう場合には、現場指揮官の独断専行が最も効果的です。

同様に、原発事故のような緊急時には、目的は事故を最小限に抑えることです。そこに現場をはなれた上層部の判断が入り込む余地はありません。だから、原子力安全委員会の指揮なんていらないんですよ。東電経営陣の判断も不要です。そういった現場以外の機関は、現場をサポートすることだけに努めればいいわけです。これは、京大の小出氏がつい先日、国会の委員会で質疑に応えて話していたことですよ。

経営論みたいになりますけど、上意下達が必要になるのは、組織全体で目的が共有されていない場合です。そして、そういう組織は弱いですよ。無敵の組織は、上から下まで目的意識が共有されている組織です。たとえば戦前の関東軍ですよ。そういう意味では、実は盧溝橋事件の現場指揮官は、「中国と戦争を開始したい」という上層部の意志を自分自身のものとして共有していたからこそ、独断専行で戦争に突入できたのかもしれませんよね。

となると、もうひとつの問題が現れてきます。どこか特定の「最強の軍団」に、国民の運命を左右させるような仕組みをつくっちゃいけないんですよね。戦前においては、関東軍みたいなほとんど独立的な軍事組織をつくるべきじゃなかったわけです。そして、現代においては、「原発村」みたいな組織をつくっちゃいけなかったんですね。

事故が起こったいまからでは遅い、ということもあります。けれど、いまからだからこそ、改められるんです。だって、みんなわかっちゃったんですからね。委員長さま、あなたは不要です。あなたも、あなたの組織も、不要なんですよ。これからは、安全な廃炉のための新しい組織にどうぞ道を譲ってくださいな。
posted by 松本淳 at 20:14| Comment(0) | 論説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月19日

「不満があるなら出ていけばいい」は、辻褄が合わない

大阪府の橋下知事がまた何か言ったらしく、Twitterのタイムラインが荒れていました。で、私としては彼が何を言おうがもう興味はないんですね。彼がもともと嘘つきだってことは知事になったときからはっきりしていることです。あの頃どっかにその根拠を書いたんですけど、このブログを始めるはるか以前のことですし、いまさらそういうことを引っ張り出しても仕方ないと思うんでリンクとかはりませんけどね。とにかく、辻褄の合わないことばっかり言い続けてるのは、ちょっと冷めた目で見ればよくわかります。

論理的に辻褄があってなくても、それでOKなひとにはべつにかまわないんですよ。人は理屈で動いているんじゃありません。それは橋下知事を支持する人だけじゃないですよ。私みたいに彼がひどいやつだと思っている人間でも、やっぱり論理的に辻褄の合わないことを支持したりします。どっち側にも筋道の通らないところはあるんですよ。だから、本当は「橋下知事は論理的におかしい」と糾弾したって意味はないんです。支持する人々のポイントは、理屈が通っているかどうかじゃないんですから。支持するかどうかが先にあって、理屈はあとから追っかけてくるもんです。

それでも、やっぱりおかしいことはおかしいって言いたくなりますよ。いえ、私は元の発言は知らないですし、いまさらそういうのを調べて不愉快な思いをしたいとも思いません。Twitterなんかで流れている非常に不確かな情報から、橋下知事が「会社の方針に従えない従業員は会社を辞める自由がある。政府の方針に従えない国民は日本を出ていく自由がある。嫌なら出ていけ」というようなことを言ったような印象を私は受けています。いかにも彼が言いそうなことですが、伝聞ですのでひょっとしたら本人ではなく取り巻きが言っていることなのかもしれません。どっちにせよ、これはおかしいですよ。いくつもの点で事実を誤認しています。

まず、就職は自由意志でするものですが、人間は自由意志で生まれ出る国を選ぶわけではないということですね。「その会社に就職した時点で会社の方針に同意したはずだ」とは言えても、「その国に生まれた時点で政府の方針に同意したはずだ」とは絶対に言えないはずですよ。

それから、会社は辞めても他の会社に就職することができるかもしれませんが、生まれた国を辞めるのは簡単じゃありません。政府の方針に不服だから国にいられないということになれば政治亡命ということになるのでしょうが、そもそも日本って、亡命者や難民に冷たいですよね。他国の難民や亡命者をどんどん受け入れているんなら「嫌なら国を出て行け」も筋が通るのかもしれませんが、これでは筋が通りませんよ。

だいたいが、仮に会社勤めだとしても、筋の通らないことに従う必要はないんですよ、本当は。なぜなら雇用契約は事業に関する指揮・命令の権限を規定しますが、事業と無関係な部分まで人間を支配することを許すものではないからです。上司は部下に業務命令を下すことができますが、これはその名のとおり業務に関する命令です。商法では商人や使用人の業務は営業に関することだけですから、営業に無関係な命令は業務命令とはみなされないわけです。平たく言えば、サラリーマンは理不尽な命令に対し「仕事をきっちりやってれば文句は言わせない」と楯突くことができるわけです。同様に、国民だって、憲法に定められた国民の義務(自由と権利を守る義務、教育の義務、勤労の義務、納税の義務)を果たしていれば、あとは文句を言われる筋合いはないわけです。

そして、最大の誤認は、「文句があるならお前が出て行け」は、国が国民に対して言えることではなく、その逆だということなんですね。そりゃそうでしょう。どっちが先にありましたか。国家ですか、それともこの島に住む人々ですか。私の祖先は少なくとも千年以上はこの本州島のどっかに住んできたはずですが、その時代に日本政府はありましたか。律令政府はあったかもしれませんが、それなら多分、私の祖先はもっと時代を遡ることもできるはずです。少なくとも原始の時代には政府なんてなかったわけで、その時代に生きていた人々の子孫がこの島に住んでいるわけです。政府なんて、後からやってきたもんですよ。人々のほうが先にあるわけです。で、普通の感覚で、後から来たほうが「嫌なら出て行け」っていうのは、非常識じゃないですか。

ま、冒頭に橋下大阪府知事の悪口を書きましたけど、彼が言ったかどうかも確認せずに反論するのはおかしなものですよね。ですから、上記は彼への反論ではなく、彼の発言に伴って誰かが言っていた暴論に対する反論だと、そういうことではあるわけです。それって変じゃない、というのは、実際そうかもしれないんですよ。でも、私だって、こういう暴論を吐く人と同じ程度には非論理的なんです。非論理的な人間同士がぶつかり合ってるんだってことをきちんと認識したほうが、問題がはっきりすると思いますよ。うん、私は非論理的かもしれないけれど、それと同じ程度に、「嫌なら出て行け」っていう人々も非論理的だって、それだけははっきりさせておきましょうよね。
posted by 松本淳 at 21:41| Comment(0) | 論説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月17日

阪神ファンと原発推進の心理

「やっぱり野手出身の監督はあかんわ。ピッチャー交代やないか。古田を見てみぃ、野村を見てみぃ、バッテリー出身の監督はピッチャー心理がようわかっとるわ。真弓もなぁ、微妙なとこがわかってへんのや。6回まで先発の責任果たして、あそこで続投はないやろ。頭からリリーフを出すべきやったって。結局ワンアウトも取れんとランナーだけ溜めて交代するんやったら、なんで最初っから替えとかへんのかっていうんや。あれはベンチのミスや」
阪神ファンの嘆きが聞こえてきます。

野球の何が面白いかって、だれもがいっぱしの評論家気取りでああでもない、こうでもないと自説を展開することができるからなんですね。あそこはどう考えてもヒットエンドランだろう、とか。もっとボールを呼び込んでおいて振らなきゃダメだとか、あそこは敬遠しかないだろう、とかね。

でも、好き放題にいう阪神ファンだって、心の奥底ではわかってるんですよね。長年野球で飯を食ってきたプロの方が、素人の自分よりもずっとよく野球を知ってるんだって。そして、それぞれの瞬間の判断は、それぞれの場面でいろんな要素を噛みあわせて下されたそれなりにベストの選択で、それがうまくいかなかったとしたら、運がわるかったのか、敵のほうが一枚上手だったのか、そういうことでしかないのだということを。

だから、こういうのを野球解説では「レバタラ」っていうんですよね。「ああしていレバ」「こうしていタラ」と、レバやタラがどんどん出てきます。そして、レバタラを言うのが野球ファンというものであるけれど、それが本質的には不毛だというのは、だれに聞くまでもなく常識なんですよね。

野球ファンがレバタラをいうのは、負けを認めたくないからです。だから、「監督がなあ。監督さえ代えたらもっと勝てるんや。選手はええのが揃ってるんやし」とか「リリーフやで。絶対的な守護神がおらんからいかんのや」と、うまくいかない原因を探り始めるのです。その原因さえ取り除けば、いくらでも勝っていける。阪神は無敵だ。だって、これだけファンが応援しているんだからと、傍目には理不尽なことを本気で考えるのが阪神ファンというものです。

で、「原発事故の原因」みたいな議論に私は、この阪神ファンの心理を感じるんですね。今日も今日とて、朝一番のニュースを見たら、「地震発生直後は復水器は正常に動いていた」というニュースがありました。こちらの元ネタでは、
福島第1原発:1号機、冷却装置を手動停止 炉圧急低下し
東電は「冷却装置によって炉内の圧力が急激に低下したため、手動でいったん停止したとみられる」と説明。津波が到達する中、こうした操作を繰り返すうちに冷却機能喪失に至った。近く始まる政府の事故原因究明につながる重要な内容だ。
とか書いてあります。さあ、阪神ファン並みの「レバタラ」が始まりますよ。

「非常用復水器の主導停止をしなかっタラ」「現場が適切な判断をしていレバ」「東電の指揮系統がしっかりしていタラ」「経営陣に危機意識があレバ」と、いった「レバタラ」は、もしもそれらの「原因」さえ適切に除くことができるならば今回の大惨事は防げた、したがって原発は安全に運用できたという幻想を追い求めるものでしかありません。

しかし、原発の作業員も東電の経営者も、それぞれの道のプロですよ。経営者としたら大事故のリスクと原子炉をオシャカにするリスクを天秤にかけて判断するのが当然です。その判断はたまたま今回大きく間違っていたわけですけれど、そこを責めたって仕方ないじゃないですか。それって、「あそこでピッチャーを交代していたらよかった」ってスポーツ新聞読みながら愚痴るのと同じレベルですよね。

そうではなく、そういった判断をしなければならない状況、そういった判断に多くの命が依存してしまう状況を作り出していたことがそもそもいけないわけです。そして、原発のような巨大なシステムを運転し続ける限り常にそういう状況は生まれる可能性が生まれるわけですから、本当の原因は「レバタラ」じゃなくて、原発のような融通の効かないシステムをつくり出してしまったことにあるのは自明なんですよね。

だから、「無敵の阪神タイガース」が幻想であるのと同じくらい、「安全な原発」も幻想です。もしも本当にその幻想を現実にしたいのならルールを変えるしかありませんけど、そうしたらほかのチームのファンが黙っちゃいないですよね。

だから、阪神ファンがペナントレースの結果を最終的には受け入れるのと同じくらいの潔さで、原発推進を信じる人々も現実を直視すべきときではないかと思います。どんなに「レバタラ」を唱えたって、事故は起こったんです。そして、これからも起こらない保証をつけることはできませんよ。だから、ぼちぼちやめにしましょうよ。

スポーツ新聞を握りしめて愚痴をつぶやき続けるのは、みっともないことだと思いません?
posted by 松本淳 at 11:02| Comment(0) | 論説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月16日

瑣末なことを「本質」と論ずることのダメさ加減

私なんかの反原発信者に言わせれば、今回の東電原発事故の最も本質的な原因は原発をつくったことです。原発が存在しないところに原発事故は発生しません。逆に、原発が建設され、稼動していれば、そこに事故の可能性が生まれます。この可能性は、たとえば津波のような突発事態によって一気に顕在化します。どんなに強力な地震や大きな津波がやってきても、原発がなければ原発事故は起こりません。これが原発事故の唯一無二の本質です。

けれど、世の中には瑣末な事実を掘り出して、「これこそが本質だ」と論ずる人がいます。いえ、いろんな観点から議論するのはかまわないんですよ。多様な議論が浮かび上がらせる真実というものもあるんですしね。ただ、あまりに恣意的な議論に関しては注意が必要です。それは、その議論が何を意図して仕掛けられているのかということなんですね。人が議論を仕掛けるときには、たいてい、その議論から何かを導こうという意図があります。たとえば私なんかは原発にかかわる議論をするときには、ほぼまちがいなく、将来の原発新設阻止と現在稼動している原発の廃炉を導きたいという意図をもってるんですね。これは隠す必要もないし、隠しているとも思っていません。けれど、そういった議論の背景にある意図を隠していたり、もっとひどい場合には書いている当人が意識していないことも多いわけですよ。

見逃されている原発事故の本質」なんていうキャッチーなタイトルの記事を見つけたんですね。私なんかは、「ついに日経BPも原発建設半世紀の歴史を直視する気になったのか」と期待したんですよね。だって、私から見れば、「本質」はそこにしかないわけです。けれど、そんなわけはありません。この記事に書かれていたのは、もっと瑣末な初動体制に対する批判でした。

この記事の要点は、「3月11日16時36分に非常用炉心冷却系(ECCS)が止まってから8時間は、1号機は隔離時復水器(IC)が作動して「制御可能」の状態にあった。」という事実から、その「執行猶予」の時間内に「毎時25トンの注水をしていれば1号機を「制御可能」の状態にとどめて置くことは可能だった。」として、その対応を阻んだ経営陣の判断、さらには、その背後にある「技術経営」の欠落こそが「本質」であるとしています。さて、そうなんでしょうか。

まず、8時間のIC作動時間中、本当に原発が「制御可能」だったのかどうかということです。確かに炉心を冷やすためのシステムがかろうじて生きていたのかもしれません。けれど、たとえば注水を行う「物理的」手段が確保されていたのかどうか。たとえば「毎時25トンの注水」が物理的に可能だったのかどうかを、記事は検討していません。いや、ひょっとしたらそうだったのかもしれません。けれど、そもそもそういった作業をするのは人間ですよ。緊急事態で、人間は安全な場所に退避しなければならなかったわけです。少なくとも翌朝までは津波警報は出続けていたわけですよね。いつ津波が再度襲ってくるのか予測のできない状況下で、それでも現場にとどまって「毎時25トンの注水」をするように求めるのは、経営判断以前の問題として「物理的に」可能だったんでしょうかね。

そして、たとえ東電の経営陣がヘボだったとしても(いや、まあそうなんでしょうけれど)、それが「技術経営」の問題だからそういう観点から企業改革を進めればOKって、そうなんでしょうか? いえ、仰るように「技術経営」の問題なのかもしれません。けれど、現状の経営体制は、原発という巨大なシステムの中の不可避の一要素としてそもそも組み込まれてしまってるんじゃないでしょうか。原発という巨大発電システムが巨大な電力会社のもとでしか存在できず、巨大な電力会社は政治と結びつくことでしか存在できず、政治と結びつくためには官僚的な経営陣が不可欠であるという順序で、経営思想そのものが交換不可能なシステムの一部になってしまっているんじゃないんでしょうか。

だから、「このパーツがダメだからここを交換したらいい」みたいな発想で「技術経営」のセンスを導入しようとしても、それはダメだってことなんですよね。システム全体を見渡す必要があります。経営部分のシステムに変更を加えたら、それは他の部分のシステムにも影響を及ぼし、最終的に原発という巨大システム全体のバランスを崩してしまいます。一部だけの交換は、有機的な巨大システムの場合、そうそううまくいくもんじゃないんですよ。それよりは、システムの再設計のほうが話が早いです。つまりは、原発の廃止と新しい代替エネルギーの開発です。そうじゃないですか?

だから、「今回の事故はあそこが悪かった」「ここが悪かった」という「本質」論は、実は「だからあそこを直せば問題ない」「だからここを修正すればOKだ」として原発を生き延びさせようとする議論でしかないのですね。ここがいちばん重要なところです。「本質」として瑣末なことをいくらつついても、それでは根源的な本質であるところの原発の存在そのものには迫れないのです。

原発事故の問題の本質は、原発そのものです。そこから目をそらすべきではないと思いますよ。

ま、こんなものも読んでいただければさらに私の主張がよくわかっていただけると思いますが。

ダメなシステム、マシなシステム ─ なぜ原発が問題なのか、そして次へと

posted by 松本淳 at 09:22| Comment(0) | 論説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月13日

「「失敗が許されない」という失敗」という考え方から

小飼弾さんという有名ブロガーががいらっしゃるんですね。私がどうこういうより、ちょっとひねった名前のブログ404 Blog Not Foundといえば、多くの方がご存知ではないでしょうか。彼はCnetのアルファブロガーでもあったので、私はそっちの方で知りました。

この小飼さんと私は、たぶん世界を見る出発点が全くちがいます。生きてきた世界も全くちがうし、価値観も大幅にちがうと、彼の書いたものを読んでいて思います。もちろん世の中には自分とちがっている人のほうが多いわけですし、私はちがっていることを前提に「なるほど、そうくるのか」と思って、それはそれで肥やしにするわけです。ちょっと前に悪口のようなものを書いた池田信夫さんなんかの書いたものを読むのも、それに賛同するからとかそれが素晴らしいからというのではなく、自分との立場のちがいが非常にわかりやすくて勉強になるからなんですね。自分と同じ意見ばかり読んでいてはつまらないですよ。ちがう意見を読むことで、自分自身がはっきりします。

ところが、興味深いことに、この小飼弾さんの書くことは、かなりの確率でほとんど私の言いたいことそのままの結論になるんですね。シンクロニシティというのか、私が書こうと思っていたことを、気がついたら彼がほぼそのまんま書いてくれていたということもありますし、私が書いたこととほとんど同じ主張をそのすぐ後に彼が書くというようなこともあります。議論の出発点や立て方は、ずいぶんちがうんですよ。結論の先にある主張も、たいていはちがっています。けれど、「これはこうだから、こうなんでしょ」という議論の主要部分は、驚くくらいに一致するんですね。

今回のシンクロニシティは、彼のこちらの記事です。

「失敗が許されない」という失敗


これは簡潔に要点がまとまっています。私のバージョンはもっと長く、紆余曲折があって自分自身が定義した用語なんかも出てくる読みづらいものですが、数週間前に出したこのePub書籍です。

ダメなシステム、マシなシステム ─ なぜ原発が問題なのか、そして次へと

小飼さんは、「事故がない、いや認められない以上、本当の失敗から学ぶことが出来なかった」と原発の本質的な弱点を指摘しています。私はもっと回りくどい言い方で「自由への可能性の否定」を「ダメなシステム」の理由としていますがほぼ同じことです。堅固に固めすぎてしまったシステム、そうせざるを得ないシステムは、その他の「少しはマシなシステム」よりは「ダメなシステム」であるわけです。ですから次は、もっと「マシなシステム」を選んでいきましょうよというのが私の主張です。

そして、主張のニュアンスのちがいは、小飼さんと私のちがいをはっきりとさせてくれるでしょう。彼の結論は、このような硬いシステムについて「問題は我々がそれを認めるかです」ということです。「「失敗が許されない」という失敗」を本質的に内包する欠点を、その他の利点がカバーできないと評価しているわけです。

ここに私とのニュアンスのちがいがあります。それは、私はどうしても、「失敗」を引き受ける責任主体を考えずにおれないからです。ePubで展開した私の議論でなぜ「自由」と「自由に伴う危険」が出てきたのかといえば、それは、その危険を担う主体を考えずにおれないからです。

ただ、あの議論では、そこを深く追求はしませんでした。その必要を感じなかったのですね。けれど、自分とはよく似ていて、それでいて微妙に異なる小飼さんの記事を読んで、その必要性を感じました。こんなふうに、他の人たちの書いたものからは、多くの勉強をさせていただきます。ときにはこき下ろすこともありますけれど、基本的には感謝しているんですよ。うん、やっぱり、いろんなひとのおかげで生きさせて頂いてるわけですからね。
posted by 松本淳 at 10:22| Comment(0) | 論説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月12日

「みんな心からだらだらと血を流している」のが原発被害

以前、「疫学的に怒る」という記事で、目に見えない広域汚染にどのように向きあえばいいのか非常に難しいとを書きました。被害が確率的にしかやってこないときに、その被害に対して過剰に向きあうことはかえって被害を大きくします。だからといって被害をなかったことにすることはできません。さらには、加害をなかったことにしてしまっては将来に大きな禍根を残します。
原発被害の難しさはここにあるわけです。私には、ここをどう乗り越えていけばいいのかわかりません。実際に目に見えた被害があって怒る、目に見えた被害が発生しなければラッキーだと喜ぶ、そういった旧来の身の処し方では、放射能の被害に対して正しい行動はできないのです。そして、新しい反応を自分の中に創りだすのは、簡単なことではありません。

そんななか、ひとつのヒントになりそうな文章に出会いました。こちらです。

文化の役目について:震災と福島の人災を受けて

大友良英さんというミュージシャンの講義録らしいのですが、私はこの方も、その活動も知りません。知りませんけれど、この文章は心に響きました。どこが、というのはもう原文を読んでいただくしかないのですが、たとえば「みんな心からだらだらと血を流している」という分析ですね。

私なんかは、原発の被害のひどさとは裏腹に、「なに、自分は運がいいから大丈夫さ」とタカを括ることで精神のバランスをとろうとします。これが正しい態度とは思いませんが、気に病みすぎることで被る二次被害を避けるにはこのぐらい図々しいほうがいいのでしょう。けれど、それは私が被災地から遠く離れて生活しているからとれる態度です。現実には、多くの人々が「心からだらだらと血を流し」ながら生きているわけです。

つまり、確率として降ってくる被害は、「心から流れる血」として形をとるのです。ここに被害の実体があります。実体としての被害があることは、直接的な被害と何ら変わることではないのですね。

私のように鈍感になることでこの被害はある程度防げるのかもしれません。けれど、鈍感であることを好き好んで選ばざるを得ないのは、やっぱり不幸です。図太さの仮面をかぶっても、心の奥底ではやはり血が流れているかもしれません。

こんな私の感想はともかく、大友良英さんのお話は読み応えがあります。ぜひお読みください。お勧めです。
posted by 松本淳 at 19:59| Comment(0) | 論説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月10日

「より安全な原発」を容認できるのか

たぶんこういうことになると思っていましたが、日本政府の方針が「脱原発」でないことが改めて明らかにされましたね。
菅直人首相は10日、2011年度第1次補正予算成立と東日本大震災発生から2カ月を迎えることを受けて記者会見し、今後のエネルギー政策について「徹底的に検証して、より安全な原子力のあり方をしっかりと求めて実行していきたい」と述べ、原発を継続していく考えを示した。
ということです。(nikkei.com「首相、エネルギー政策「より安全な原子力を」 」より)

反原発の立場をとる人の基本的な考え方は、「安全な原発などあり得ない」とするものです。ですから、「より安全な原子力のあり方を求める」こととは基本的に相入れません。この点で、議論は必ずすれ違います。私も反原発の端くれですから、「より安全な原子力」はナンセンスでしかないと思っています。

けれど、多くの人にとってはそうではないでしょう。ここは想像力を働かせなければなりません。今回の東電原発事故で「原発は懲り懲りだ」と思うようになった多くの人にとって、原発は放射能をまき散らしたから危険なのです。だから、放射能さえ出さなければ、原発は危険ではないのです。

もちろん、原発は放射性物質を扱うものですから、放射性廃棄物や事故が起こったときの放射性物質の放出が100%起こらないということはありえません。ですけれど、どんなものでも100%ということはないわけです。そうなると、どこまで容認できるのか、どこまでを安全でどこまでを危険と線引きするのかという問題になってきます。そして、そういう考え方は、容易に「より安全な原子力」を認めることになります。これがおそらく、世間の常識です。そして、今回の日本政府の発表は、それを背景にしたものだと思うわけです。

ですから、「より安全な原発」など容認できない反原発の立場からの議論は、ここを正確に突くものでなければなりません。だから、「原発はこれだけ危険ですよ」と議論してはならないのです。なぜなら、「それだけ危険なのなら、その危険性をこれだけ減らせばOKだろう」という反論が必ず出てくるからです。危険性の評価に巻き込まれると、水掛け論になりかねません。科学の数字は厳正であるとはいえ、どのような枠組みを設定し、どのような根拠を採用するのかはかなり政治的で恣意的です。「これだけ危険です」という主張が、「そこから先は安全なんですよね」という言い逃れにすり替えられかねません。

原発は危険なものです。だから脱原発が必要だということは、もうまちがいのない事実です。けれど、立場が変われば、「だから安全な原発が必要なんだ」という方向こそがまちがいのないものに見えてしまいます。そんなときに、出発点の危険性だけをいくら強調しても、説得はできません。

そうではなく、「より安全な原発」であってもそれが容認できない理由を考え出すべきです。それも、相手にわかる論理や言葉をさがすべきでしょう。例えば、経済を語る人には「安全な原発」よりも代替エネルギーのほうが経済を活性化させると説く方法があるかもしれません。「現実問題」を語る人には、東電が直面している現実問題を提示すればいいかもしれません。方法はいろいろあるでしょう。重要なことは、危険性を意識しつつ、危険-安全議論に巻き込まれないことだと思います。

「より安全な原発」なんてナンセンスです。そう思う人が多数になれば、こんな回りくどいことをしなくてすむのですけれどね。
posted by 松本淳 at 22:10| Comment(0) | 論説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月30日

「いまこそ原発を推進を」は理屈ではない

多くの人はこの期に及んで「原発推進」をいう人の気持ちがわからないと思います。ここはもう合理的な議論で片付く世界じゃないんですね。推進をいう人には反対をいう人の気持ちがわからない。これは、東電原発の事故以前の状況でした。2つの主張は、全く別々の世界観を根っこにもっているんですよね。それがよくわかる記事がありました。イギリスFinancial Timesの社説の翻訳のようです。

[FT]今こそ原発を推進しよう(社説)

ちょっと引用しましょうか。
原子力のない世界は安全性が低くなる。原子力は現在、世界の発電量の14%を占めており、これを化石燃料や再生可能エネルギーで代替することは当面できない。強行すれば、エネルギー市場が深刻な不安定性や不足に見舞われる恐れがある。要するに、エネルギー安全保障には原子力を含む多様なエネルギー源が必要なのだ。
(中略)
原子力の時代が始まってからの原子力エネルギーによる死傷者数(鉱石の採掘や燃料精製の現場での事故から、発電所からの放射能汚染によるものまでを含めた数)は、石炭や石油、天然ガスの燃焼による犠牲者数よりケタ違いに少ない。炭素燃料がもたらす気候変動という、論争の的になっている2次的影響を無視した場合でもそうなのだ。
(中略)
チェルノブイリは過去四半世紀にわたって原子力の開発を凍結させた。もし福島が今後25年間にわたって、これと同じくらい効果的に原子力の開発を凍結させるようなら、世界にひどい遺産を残したことになる。


この主張は、主張の範囲内では非常に合理的なんですよね。反原発の主張である「危険」に対しては「安全」、「未来への負の遺産」に対しては「開発(研究)」、「代替エネルギー」に対しては「既存の原発のシェアの大きさ」で反論します。そして、これを合理的な議論で論破することはできないのですね。

いえ、原発推進の論理のほうが合理的だというんじゃないんですよ。そうではなく、合理主義という点では、どちらも合理的なんです。たとえば、リスクの判断基準として過去の被害をもとに見積もるのは合理的です。そして、頻度の高い小さな事故と大規模な被害を及ぼすけれどめったに起こらない事故と、リスクを評価すれば前者のほうが危険だと判断するのも合理的でしょう。未来がどうなるかを正確に知ることはだれにもできません。だから、「研究開発を続ければもっと安全なものができる」という未来予測を否定するのは合理的ではありません。原発を止めたときの経済的な影響評価に関しても、合理的に考えればご説ごもっともでしょう。

その一方で、反原発側が巨大事故の社会的影響や、巨大事故の可能性そのものが誘引するリスクをもって異なったリスク評価をするのも合理的です。未来が不確定的である以上、「今後いくら研究しても十分ではない」と予測することも合理的です。現在の原発を止めて代替エネルギーに進んだほうが経済が活性化すると試算することも、無理なくできるはずです。

そういった合理的な論議は、それぞれの枠内では何の矛盾もないのです。だから、リスク評価で、未来予測で、経済評価で、それぞれ互いの理屈を戦わせても、すれ違うだけなんですね。前提がちがうのです。土俵がちがうのです。ルールがちがうのです。一方が野球の話をしているときに、もう一方がサッカーの話をしているようなものなんですね。

だから、重要なことは、「いまこそ原発を推進を」という主張が、どういうスポーツの話なのかを明らかにすることです。どういうルールなのか、どういう土俵なのか、どういう前提なのかをはっきりさせることです。その理屈をどうこういっても仕方ないんですね。理屈はいくらでもあとからつけられます。それは反原発だって同じですよ。原発に反対する理屈は、いくらでもつけられるわけです。なぜなら、反原発のルールは、原発に反対することだからです。同様に、原発推進のルールも、原発を推進することです。じゃあ、それはどういう競技なんですか、ということです。そういうルールは、何のためにできているのですかということですよ。

実はその重要なことが、不毛で意味のないそれぞれの論理から見えてくるんですね。だから、論理の中身が重要じゃないんです。それが合理的であるかないかは、重要ではありません。どっちみち、内部の人間から見れば合理的に見えるんです。それを外部から合理的でないと批判しても徒労に終わるだけですよね。

論理の中身ではなく、論理が何を前提に立てられているのかを見ることが重要です。そうすると、原発推進をいう人々の(あるいは反原発をいう人々の)世界観が見えてきます。その世界観の当否を議論することこそが重要なのです。その世界観のどっちを選択するのかを社会として選ぶことが重要であるわけです。

そういう意味で、Financial Timesの社説は非常にわかりやすいのですね。

まず、「既に原子力は一定の割合のエネルギーを供給していて、これを止めることは現実的ではない」という主張です。この主張が合理的であるのは、現在使っているエネルギーの14%を止めることで生じる経済的混乱を絶対に回避しなければならないという前提があるからです。その前提は、つまり、既存の経済成長路線が想定外に狂うことで大規模な損害を受ける人々にとっては当然のものなのでしょう。そして、そういう人々は、具体的には投資家やその周辺で生きている人々です。つまり、Financial Timesの読者層ですね。そういう経済人たちの世界観が、「いまこそ原発を推進を」を生み出しているわけです。

次に、リスクの評価です。犠牲者の数を生存者の数と比較して犠牲者数の少ないほうが優れているという判断が合理的であるのは、そのための戦略を司令部が決定できるという支配構造が前提として想定されている場合です。これは典型的には軍部の発想ですが、軍隊に限らず、戦略によってオペレーションを行うときには、犠牲者数が少なくなるようにリスク評価をするのが合理的になります。つまり、このような前提は、支配者層にとってのものなのですね。そして原題の経済社会で支配者層というのは、やっぱり経済人であり、Financial Timesの読者ですね。

そして、未来の研究開発に現在の問題の解決を求める合理性は、やはりそういうソリューションに対して投資機会を期待する投資家心理としては当然でしょう。

つまり、「原発を推進を」という主張は、そういう土俵で発せられる主張なわけですよ。ここが最も重要なのです。原発は、経済的世界観によって生きる経済人、それもその支配層のものであるわけです。

だから、反原発を通そうと思ったら、そういう世界観、そういう支配に対して異議を申し立てるんじゃなきゃいけませんよ。そうでなければ、その土俵の上で闘うことになります。そして、その土俵の上では、原発こそが合理的であるかもしれないのですから。

ということで、我田引水にこちらですね。

ダメなシステム、マシなシステム ─ なぜ原発が問題なのか、そして次へと

ぜひお読みください。iPadやAndroid端末が読みやすいでしょうね。もちろんブラウザでもOKです(Firefox+アドオンが必要)。
posted by 松本淳 at 10:53| Comment(0) | 論説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする